2013年6月29日土曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Tako-saka & Handa-saka / 世田谷区の古道、凧坂・半田坂

以前、世田谷区には縦のラインがあまりなく、環七と環八があるだけで、しかし、共に、新しい道だと思われていたが、環七は殆ど古道を踏襲しているということを記事にしました。

しかし、正確にいうと、実は、まだあったんです。しかも古道で。

それが、今回探検する、凧坂と半田坂です。

場所は、鎌倉道世田谷八幡ルートを、滝坂道との辻を北上し、豪徳寺、山下駅前を抜け、松原六丁目の交差点の少し先です。


凧坂・半田坂、明治13年古地図
二股に別れていて、向かって右が半田坂、左が凧坂です。半田坂の登坂途中で、鎌倉道は右に折れます。

凧坂・半田坂下
自転車の二人を見ると、『さぁ、上るぞ』という空気感で出ていますね。
追分にある馬頭観音
名前の由来ですが、凧坂は、高い坂、高う坂、凧坂と訛った様です。半田坂は、頂上付近に半田塚があり、この辺りを半田村と言っていたからです。

半田塚
坂を登り切るとそこは甲州街道。そこから先北には延びてませんから、甲州街道を経由して南に向う道だったことが分かります。

南に目を転ずると、鎌倉道ですから、二子玉川に向かいます。と、いうことは、この道は、大山道でもあったのです。

半田坂沿いにある大山道道標
もう一つ、縦ラインの古道があります。実はこれも鎌倉道です。以前、ご紹介しています。

もう一つの縦ライン、鎌倉道西ルート
東西方向の太い道は甲州道中、真ん中縦の川は品川用水、品川用水沿いの道と
画面真ん中で二股に分かれている道は、南下すると狛江に続く縦ライン

鎌倉時代は、武蔵国の中心は現在の府中で、江戸城ではありません。又、平安・鎌倉海進もあり、東京低地は歩くのが困難でもありました。よって、官道や鎌倉道は、台地上のルートをとったのです。

東京地形図(現代)
下総国の国府市川に向かうには、都心を通るのが最も近いが、御覧のように、隅田川、中川、江戸川が
作った東京低地であり、平安・鎌倉海進の頃は海か、泥濘だった。
だから、縦のラインは鎌倉道と重なるんですね。

2013年6月27日木曜日

Modern Architecture in Japan, Hibiya park of Chiyoda ward, Tokyo / 近代建築散歩、日比谷公園

皆さんお馴染み、日比谷公園です。

日比谷公会堂・東京市政会館
昭和4年(1929年)竣工
元日比谷公園公園事務所(現フェリーチェガーデン)
明治43年(1910年)竣工。明治時代の貴重な木造近代建築。
近代建築ですが、元は公園事務所で、今は結婚式場として使われているフェリーチェガーデンと、日比谷公会堂・東京市政会館が残ってます。

日比谷公園は、日本で最初の洋式公園として、明治36年(1903年)に開園しました。

元は大名屋敷。その後、練兵場として使われ、公園になりました。
1858年古地図
松平大膳、松平肥前、小笠原佐渡、朽木近江、丹羽長門、有馬兵庫、南部美濃、北條美濃の屋敷跡が
日比谷公園に。松平肥前の屋敷東側に堀があるが、それが今の心字池。
1880年(明治13年)古地図
公園内にも、色々な近代建造物が残ってます。是非、訪れてみてください。

2013年6月24日月曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Spring No.41 "Hachiman Shrine in Ichigaya"

Painted by Hiroshige in 1856 - 1858
Photo by myself in 2013
JR市ヶ谷駅を降りて靖国通りに向かう橋の途中からの構図です。商談で市ヶ谷駅付近のお客様に訪問後、撮影しました。ほぼ、広重の構図と同じと思います。雰囲気が出てますね。

今は高いビルが立ち並び、市ヶ谷亀ヶ岡八幡は全く見えなくなってしまいました。私のポリシーとして、本当なら、桜の季節に撮影に行くのですが、ここは八幡様が全く見えないことが分かっていたので、桜の季節に撮らなくても良いだろうと思い、今の撮影でした。

外堀は当時のまま残っています。現在の靖国通りが、広重が描いている通りで、当時は、八幡様の門前町、盛り場だったのですね。通りを行き交う人々、店、桟敷も描かれています。

この道を外堀沿いに西に進むと、四谷見附御門となり、そこからは新宿通り(R20)が西に延びています(東は半蔵門に繋がっている。)。直ぐに新宿御苑に出ますが、その辺りは甲州道中第一の宿、内藤新宿です。ここは今の歌舞伎町に連なる盛り場でした(おかげで、元祖甲州道中第一の宿だった高井戸宿[私の住まいの近く]は、衰退の一途で今は何もありません。)。

ここ市ヶ谷の八幡町から四谷、内藤新宿までは、男衆の夢の町、盛り場ストリートだったのかもしれません。

Map of 1858

2013年6月23日日曜日

Modern Architecture in Japan, Komazawa Water Tower of Setagaya ward, Tokyo / 近代建築散歩、駒沢給水塔(世田谷区)






大正13年(1924年)、工期中に関東大震災があるなどしたものの竣工したこの駒沢給水塔は、多摩川の川底の伏流水を採取し、砧浄水場でろ過した後、ポンプでこの駒沢給水塔まで組み上げ、渋谷までは自然流化で水を運んでいました。

空襲も受けましたが生き延び、1999年、その役目を終えました。

王冠のようなデザインは、今は出来ないんでしょうね。

2013年6月22日土曜日

Ancient Road in Setagaya, Old Ringroad 7 / 世田谷区の古道、環七

世田谷に引っ越してきて思うのは、縦のラインが無いということだ。

『無い』というと言い過ぎだが、地図を見て、あると思って走ってみても、道が狭かったり、一通だったり。

これは結局、今の道の多くが江戸時代の道をベースとしていて、江戸城を中心に放射線状に広がっているからだ。だから、横のラインはある。新旧大山道、滝坂道、甲州道中など。

そんな中、唯一あるのは、環七と環八だ。だから、いつも混んでいる。

古地図を見ると、環七は、今の道筋と古道とあまり経路が変わっていない。

で、今回は、環七のペースとなった旧道部分を探検してみたい。

まずは環七の歴史から、Wikiに詳しい。以下、Wikiから抜粋:

旧東京市が1927年(昭和2年)に策定した「大東京道路網計画」、昭和2年8月1日内務省告示「大東京都市計画道路構図」に建設計画が盛り込まれ、まず西側の区間から片側二車線以上の道路として、ルート上の既存道路の「環状道路」への指定替えや拡幅、および主要区間の建設工事が始められた。

やはり、古道がベースとなっている。

これは、現在の地図に、現在の環七と古道とを示したもの。ほぼ同じ経路であることが分かる。


以下は古地図

環七、明治13年古地図
古地図と照合すると、旧道部分は、北から、

1. 羽根木交差点の辺り
2. 小田急線世田谷代田駅付近
3. 若林陸橋付近
4. 世田谷線若林駅付近

最後、旧道は、駒留陸橋を過ぎた辺りから、南西に折れ、六郷田無道に接続する。

では、1から探検です。

ここはただの住宅地で距離も短く被写体となるものがない。とりあえず、ガイドとして出入り口のみ載せます。

羽根木交差点付近旧道入口
羽根木交差点付近旧道出口
世田谷代田駅付近は、1927年(昭和2年)の駅開業以降、商店街として賑わい始めた。看板建築の商店などが残っている。
世田谷代田駅付近旧道入口
世田谷代田駅付近旧道の看板建築
この辺りは空襲を受けたはずだが、看板建築の商店が幾つか残っている。
丹沢方面の眺望、丹沢の山々がくっきり見える。ここは眺めが良い。初めて知った。
恐らく老舗の和菓子屋
世田谷代田駅付近旧道出口

若林陸橋付近の旧道は、途中、滝坂道と交差する。滝坂道には商店などあるがこちら環七旧道は住宅街だ。
若林陸橋付近旧道入口
滝坂下道との辻にある庚申様
若林陸橋付近旧道出口
若林陸橋付近旧道入口2、環七を渡った向こうに短い旧道が残る。
若林陸橋付近旧道出口2

若林駅付近は、世田谷線若林駅開業の1925年(大正14年)以来、商店街として賑わった。
若林駅付近旧道入口
若林駅付近旧道出口

最後、環七の旧道は、南西に向きを変える。住宅街を通って六郷田無道に接続し、終わる。この旧道は、甲州道中と六郷田無道を南北方向に接続する道だったのだ。

環七沿いには、北から、代田八幡、円乗院、若林天満宮、駒留八幡と寺社が多い。なんで新しい道である環七沿いに? と、思っていたが、旧道だったからだ。
最後、駒留陸橋を過ぎてすぐ、旧道は南西に向きを変える。その辻にはお地蔵様がいた。

2013年6月21日金曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Autumn No. 84 "Shinagawa Susaki"

Painted by Hiroshige in 1856 - 1858
Photo by myself in 2011
東海道最初の宿で賑わう品川宿のただ中にあり、背後には吉宗の桜の名所御殿山が控え、地形的に面白い洲崎であり、広重も描いている土蔵相模ありと、名所たる所以は十分だ。

しかし、ここが面白いのはそれだけではない。現在の地図を見てほしい。


より大きな地図で 品川すさき を表示

何か、気付きませんか?

六角形の上半分が見つけられません?

そう、ここは、嘗ての台場なんです。きれいに残ってますね。

2013年6月20日木曜日

Modern Architecture in Japan, Shinbashi, Nishi-shinbashi and Atago of Minato ward, Tokyo / 近代建築散歩、新橋、西新橋、愛宕

堀商店、昭和7年(1932年)
堤第一ビル、大正9年
上一ビル
外壁が覆われ一見新しいビルに見えるが、高さと交差点に正面ファサードを
向けていることなど、近代建築の特徴が見える。
東京慈恵会医科大学附属病院、昭和5年(1930年)
東京慈恵会医科大学本館、昭和7年(1932年)
明治の時代に入ると、日本は近代化を進めました。富岡製糸工場など、多くの工場、鉄道、鉱山などが全国に出来ていきました。 

そんな時代をリードしていたのが工部省という役所です。その本庁舎が、1872年、銀座から赤坂に移転されました。1875年には、芝赤羽に日本最初の機械製作官営工場として赤羽工作分局が設立され、製鉄機械や蒸気機関の製作が始まります。

工部省は、この他に、品川にガラス製造、深川にレンガ・セメント製造の工場を設置しました。

そうして形成された近代化、工業化の波に乗って、民間の工場も多数設立されるようになります。その多くが、古川流域に集中しました。大塚靴工場、三田製紙所、芝浦製作所、東京瓦斯第一製造所、池貝工場、日本電気、沖商会電気製作所、東洋印刷などです。古川が、水運の便が良かったからです。

その派生と言えるでしょう、愛宕下から新橋の辺りでは、洋風家具製造業が集まりだします。直ぐ近くに、それまではただの職人街だったものがレンガ街となり一気に洋風文化が入り込んだ銀座が控えていた影響も大きいと思います。

2013年6月18日火曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Winter No. 114 "Aoi Slope outside Toranomon gate"

Painted by Hiroshige in 1856 - 1858
Photo by myself in 2013
地下鉄でいうと、銀座線の赤坂と虎ノ門の間に位置する葵坂です。今工事中の虎ノ門病院に沿った場所にあります。

広重の絵を見ると、坂の右側に川があります。これは、溜池からの用水路で、溜池から続く江戸城の堀の役割を担っています。ちょうど、ここが溜池からの落ち口だったわけですね。筋は、銀座八丁目と新橋の間を通り浜離宮に繋がっています。今は首都高になってます。

それから、何やら屋台は出ているは、夜というのにそれなりに人通りはあるはで、賑やかですが、それは、葵坂を下って右に折れるとそこに金毘羅さんがあるからです。絵を見るとただの坂ですが、名所として取り上げられたのは、これが理由だったのです。金毘羅さんは今でも同じ位置にあります。

1858年製古地図
溜池の下に松平肥前守の屋敷がありますが、その右側が葵坂です。
突き当りを右に行くと赤い背景で『コンヒラ』と書かれています。
その敷地には、『京極佐渡』と書かれてますが、讃岐丸亀藩主京極家の屋敷です。
だから、金毘羅さんなんです。

より大きな地図で 虎の門外あふひ坂 を表示

さて、金毘羅さんを過ぎ、大きな通り(外堀通り)に出ると、正面に文部科学省があります。その左脇に石垣が確認出来ます。ちょうどここに虎ノ門があったんですね。その一部が残されています。説明書きは一切ありませんが・・・

江戸城虎ノ門の石垣
是非、近くで見てください。石垣は、徳川将軍家が大名に作らせましたが、
担当した大名家の家紋とかが彫られています。

2013年6月17日月曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Winter No. 118 "View from the Hilltop of Yushima Tenjin Shrine"

Painted by Hiroshige in 1856 - 1858
Photo by myself in 2011
雪の白、社殿の赤、池の青のトリコロールカラーがなんとも美しい。

この構図は、湯島天神の女坂を上がって後ろを振り返ったものだ。今は、写真のようにマンションが邪魔して何も見えない。もったいない。

ここ湯島天神は、江戸三大天神(一説には、やはり上野の五条天神が、湯島の代わりに数えられている。)の一つ。近くには繁華街上野もあり、名所中の名所だ。

2013年6月16日日曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Winter No. 104 "Senju Great Bridge"

Painted by Hiroshige in 1856 - 1858
Photo by Yoichi Onodera
千住大橋は、隅田川に一番最初に架けられた橋だ。1594年に架橋され、両国橋など他の橋が架けられるまでは、単に、『大橋』と呼ばれていた。この橋しか無かったからである。

千住大橋が架けられた後、それまで、奥州への街道筋は、現在の白髭橋辺りにあった橋場の渡し経由だったが、千住大橋経由に変わった。

千住大橋が架けられた後、橋を渡った先に千住宿が設けられた。千住宿は、幕末期には家は2,400軒近く、人口も約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町になった。

千住大橋付近は、両岸がコンクリートの高い壁で、撮影できるポイントに降りられない。写真は、実は、日比谷線の橋だ。