2013年1月27日日曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社

浄真寺所蔵伝吉良頼康

世田谷には、吉良氏所縁の寺社が多い。代表的なところでは、豪徳寺や勝光院がある。
吉良さんは随分と信心深い人だったんだなぁと思うのではなく、これは何か裏があるのではと、調べ始めたところ、色々と分かってきた。

これはシリーズでご報告したいと思うが、今回はその第一回。楽しむには、まず、当時の関東の戦国の世の様子を知る必要がある。

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時の奥州吉良家当主 吉良治家は、1356-1366年の頃、時の鎌倉公方 足利基氏から上野国碓氷郡飽間郷を拝領され、その後、武蔵国世田谷郷も拝領されて、子の頼治を経て孫の頼氏(西条吉良氏、吉良俊氏の次男。奥州吉良氏、吉良頼治の養子に入った。)が世田谷城築城後は、世田谷に移った。頼氏の兄義尚と弟義真の生没年から、恐らく1430〜50年頃のことと思われる。

この100年という期間の終わり数十年以外は、大体において、関東は、平和だった。

が、犬懸上杉禅秀(氏憲)がこれを乱す。上杉禅秀の乱だ。1416年、関東管領犬懸上杉禅秀(氏憲)は、鎌倉公方四代将軍 足利持氏に反乱を起こす。結局、翌1417年の1月に、足利持氏が逃れた先の駿河国今川氏に攻め込まれ、犬懸上杉禅秀(氏憲)は自害し乱は終息した。

奥州での勢力争いに敗れた吉良氏を拾ってくれた鎌倉公方に恩義がある吉良氏は、この頃は、上野国碓氷郡飽間郷に在し鎌倉公方 足利持氏についていたものと思われる。

上杉禅秀の乱で、足利持氏についた扇谷上杉氏定は、重傷を負い、足利持氏鎌倉脱出に帯同出来ず、結局、藤沢で自害した。家督は長男の持定に譲るも、持定も、上杉禅秀の乱の僅か3年後に没する。家督は、次男の持朝に譲られた。1433年の頃と思われる。持朝、元服間も無い17の頃である。

持朝の名だが、扇谷上杉氏の通字は「定」で、扇谷上杉氏の当主は代々鎌倉公方の一字を当てていたことから、当時の鎌倉公方である足利持氏の「持」を当てようとしたが、没した兄が既に名としていた為、祖先の朝定から「朝」を当て、持朝となっている。

これ程までに、足利持氏に忠誠を尽くしていた扇谷上杉氏、持朝だが、足利持氏の、上杉禅秀の乱の残党狩りと称した幕府重鎮の宇都宮氏や佐竹氏を討伐したり、元号が変わっても前の元号を使い続けたりといった、幕府への反発を強めた動きに我慢ならず、関東管領 山之内上杉憲実と足利持氏の対立が元となっている永享の乱に、山之内上杉憲実側として参戦する。1439年のことだ。

その、扇谷上杉持朝の妾を妻としたのが、頼氏のひ孫に当たる吉良成高だ。吉良成高は、扇谷上杉氏と姻戚関係となったことで、扇谷上杉氏と行動を共にすることになる。同族である鎌倉公方足利氏から扇谷上杉氏に鞍替えしたわけだ。永享の乱が1439年だから、この頃は既に世田谷にいた。

永享の乱で敗れた足利持氏の四男、永寿王は、まだ幼少だったので許され、生き残った。その後、足利成氏と名乗り第五代鎌倉公方となったが、父を殺された恨みから、1454年、享徳の乱を起こす。第五代鎌倉公方 足利成氏は、管領山ノ内上杉氏・扇ヶ谷上杉氏とまたもや対立し、成氏は上杉氏を鎌倉から排除した。しかし、両上杉氏から応援の要請を受けた幕府から討伐軍が差し向けられ、成氏は戦いに敗れ鎌倉から古河の鴻巣の館に落ち延びてゆく。古河公方の始まりである。

第五代鎌倉公方 足利成氏が鎌倉を出て、幕府未公認の古河公方となったことで、幕府公認の鎌倉公方が不在となった為、幕府は、1458年、第八代室町幕府将軍 足利義政の弟政知を関東管領(幕府側の言い方。東国では、鎌倉公方。)に任命する。しかし、古河公方 足利成氏も、両上杉氏も、これを認めず、足利政知は鎌倉に入ることすら出来ず、伊豆韮山の地に留り、堀越公方となった。かくして、関東は、古河公方、堀越公方、両上杉氏の三つ巴の戦いとなった。

古河公方 足利成氏に対して、山内上杉顕定と扇谷上杉定正は、江戸城、岩槻城、川越城、 五十子城などを築いて共同して戦った。

1477年、山之内上杉家の家宰跡目を巡り、長尾景春が乱を起こす。長尾景春の乱だ。結局、扇谷上杉家家宰太田道灌の活躍により、乱は鎮圧された。が、収束の形は、長尾景春が最後頼った足利成氏との和睦で、この主導が山之内上杉家だったことに、扇谷上杉家は不満が残った。

この頃も、吉良氏は扇谷上杉家についていた。長尾景春の乱では、太田道灌が相模国に出陣した際、吉良成高が江戸城を守った。

長尾景春の乱は、言うなれば、山之内上杉家の御家騒動である。山之内上杉家は、完全に勢力を失った。同時に、長尾景春の乱は、扇谷上杉家太田道灌の活躍により鎮圧され、太田道灌の威光は大いに高まった。なんとか、上杉家庶流扇谷上杉家の力を落とさねばならない上杉家本家山之内上杉顕定は、太田道灌は扇谷上杉定正にとっても脅威なのではないかと唆し、扇谷上杉定正は、結局、太田道灌を殺してしまう。更に、扇谷上杉家家臣達は、英雄太田道灌が殺されたのを見て、山之内上杉家に鞍替えしてしまう有様となった。追い込まれた定正は、なんと、古河公方 足利成氏と手を組む。1488年のことだ。これが決定打となり、山之内上杉家と扇谷上杉家は対立する。長尾景春を味方につけたものの、多くの家臣が山之内上杉家に鞍替えされている扇谷上杉定正は、窮地に立たされた。そこで、扇谷上杉定正の子、朝良は、今川氏と、先に堀越公方を撃ち破っていた後北条氏と手を組むこととなった。これが、後北条氏関東進出の大きなきっかけとなった。

その後、後北条氏を驚異と感じた両上杉家は再び手を組み、後北条氏と対峙することになる。

1524年に、後北条氏と扇谷上杉氏との、河越城を巡る戦いが始まる。一連の戦いとして、同年には、江戸城が後北条氏に奪われる。1530年に、世田谷城は扇谷上杉家の攻撃を受けたとあるから、扇谷上杉家についていた吉良氏は、扇谷上杉家が後北条氏と手を組んだこの頃、1490-1500年ぐらいから後北条氏に接近し始め、河越城の戦いが始まる1524年には、後北条氏と同盟を組んでいたと思われる。1532年には、後北条氏綱の娘、崎姫を、吉良頼康(成高の子)は妻として向かい入れている。1537年、遂に、河越城は後北条氏に落ちる。1546年には、河越夜戦で河越城を死守した。後北条氏に追われた山之内上杉憲定は、1552年に、越後の長尾氏を頼り、長尾景虎、後の上杉謙信を養子に取り、反撃の機会を伺う。1561年、遂に、上杉謙信の小田原攻めが始まった。その時、上杉謙信勢は世田谷城近くを通過したが、名門吉良氏の居城世田谷城はスルーされた。1569年の武田信玄による小田原攻めの際も、別働隊が世田谷を通ったが、同じく、スルーした。が、1590年、遂に、秀吉により、小田原城が落ちる。世田谷城は、前田利家の担当だっだが、当時の世田谷城主吉良氏朝は、抵抗せずに、秘密裏に、城を抜け出し、品川道で品川に出て、舟で上総に逃げた。

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  1. (味方)鎌倉公方足利氏→(敵)犬懸上杉氏
  2. (味方)山之内・扇谷両上杉氏(この頃、世田谷に)→(敵)鎌倉公方足利氏、古河公方足利氏
  3. (味方)扇谷上杉氏→(敵)山之内上杉氏
  4. (味方)後北条氏→(敵)山之内・扇谷両上杉氏
正に、昨日の味方は今日の敵。強そうなところを嗅ぎ分けて海原を泳いでいかないと生き残れない、そういう状態だったのだ、関東は。

2013年1月20日日曜日

Acuent Road in Setagaya ward, Kamakura-michi / 世田谷区の古道、鎌倉道

碑文谷公園西に位置する鎌倉道 東ルート
頼朝挙兵の際、義経が平泉から馳せ参じた道であり、
壇ノ浦の後、頼朝が奥州征伐で平泉に向かった道。

鎌倉道というと、鎌倉時代に、御家人たちが、『イザ、鎌倉!』と、それぞれの領地から鎌倉に馳せ参じた道だ。

世田谷には、鎌倉道に所縁のありそうな通りや橋、史跡が幾つかある。今回は、それらを通して、世田谷と鎌倉道の関わりや歴史を紐解いてみたいと思う。

1. 鎌倉通りと北沢川に架かる鎌倉橋(太子堂八幡ルート)

京王井の頭線下北沢駅西口の踏切を南に渡り道なりに進むと、小田急線の踏み切りに出て、それを渡りほぼ真南に道なりに進むとやがて北沢川に出る。その橋は鎌倉橋で、その通りは鎌倉通りだ。世田谷に、何故、『鎌倉』なのか。通りは南北で鎌倉に向かってもいない。

北沢川に架かる鎌倉橋
鎌倉通り
古道の雰囲気が残る道だ。

謎を解いてくれるのは、そのまま南に進んだところにある太子堂八幡だ。

太子堂八幡

境内掲示の由緒によると、

『平安時代後期源義家が、父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に向う途中、この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられている事から、少なくとも、これより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。

太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で、鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。

此の鎌倉道の附近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村121-122番地の辺を(5丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。』

源頼義・義家親子の、陸奥の阿部氏討伐とはつまり前九年の役で、源頼義が陸奥の守として奥州に赴任したのは1051年だ。この道は、1051年には既に成立していたということになる。

2. R20上北沢駅入口付近にある鎌倉街道入口(西ルート)

R20の鎌倉街道入口標識

この道を北上すると神田川があり、そこに架かる橋がやはり鎌倉橋だ。

神田川に架かる鎌倉橋の袂にある石碑

神田川に架かる鎌倉橋を渡り、西永福方面に進み、方南通りに出て暫くすると、大宮八幡がある。

大宮八幡

大宮八幡の由緒によると、

『鎮守府将軍・源頼義公の軍がこの大宮の地にさしかかると、大空には白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となりました。源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣されました。そして奥州を平定して凱旋のおり、誓いの通り康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建てました。これが当宮の創建の縁起であります。

また、その子八幡太郎義家公も後三年の役のあと、父にならい当宮の社殿を修築し、境内に千本の若松の苗を植えたと伝えられています。』

太子堂八幡ルートは前九年の行きに通ったとのことだったが、この西ルートの場合、前九年の役の行きと帰り、源頼義・義家親子がここを通ったとのことだ。更に、このルートの場合は、後三年の役の帰り、よって1087年頃、義家が再びここを通っていることになる。

逆に進んでみよう。

R20の鎌倉街道入口から、上北沢駅に向かい、松沢病院を抜け、八幡山グラウンドの北辺を西に、環八を渡り、芦花公園の北辺を西に、芦花公園西の交差点を南に。あとは一本道で、祖師谷大蔵の駅を過ぎ、やがて、津久井往還と出合う。

芦花公園西の交差点と祖師谷大蔵の間の南北の一本道、祖師谷大蔵の駅の手前に、祖師谷神明社がある。

祖師谷神明社

ここの伝承は、

『古老の口碑によると、正平年間(1346-69)に新田義興・義宗兄弟等が足利尊氏討伐の挙兵をしこの地に来た際に小祠があるのを見て、祭神の何たるかを聞き、天照皇大神であるのを知り、新田兄弟は、「吾が憩いたるは皇祖の吾を助くるものなり」として戦勝を祈願し甲冑一式を献じ兵を励まして出発したと伝承されている。』

この伝承では、1335年の中先代の乱の際、この道が使われたことになる。

3. 千歳船橋の鎌倉道伝承(千歳船橋ルート)

能勢公園世田谷区案内板

※見易くする為、天地逆にしてある。

多少分かりづらいが、画面左下に、『鎌倉道』を確認できると思う。写真地図では橙の道筋が該当する。

また、千歳船橋の船橋の地名の由来だが、世田谷区によると、

『ずっと昔には烏山川を含む周辺一帯に幅200メートル、長さ1800メートルくらいの大きな池があったのではないかとされ、そこに船橋が架けられていたと見る説です。そしてその橋の位置は今の希望丘橋のあたりで、この船橋を通る道は、古い鎌倉街道の一つだったであろうといわれています。この幻の船橋の池と考えられるところは、かつての水田地帯だった場所で、長い間に池は徐々に湿地帯となって水田に利用されたのではないかといわれています。』

確かに、この道をまっすぐ北へ進むと、上北沢駅の南で、西ルートとぶつかる。

4. 世田谷八幡(世田谷八幡ルート)

世田谷八幡

世田谷八幡の由緒は、境内掲示によると、

『義家は、戦地からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待つため十数日間滞在する事となりました。もとより敬神の念を厚く持つ義家は、今度の戦勝は日頃氏神(守神)として信仰する八幡大神様の御加護に依るものと深く感謝し、備前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を、この世田谷の地にお招き申上げ盛大なる勧請報斎・奉祝のお祭りを執り行い、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われています。また、そのとき兵士に奉祝相撲を取らせた事でも有名であり、現在でも奉納相撲として伝えられています。』

と、西ルート同様、義家後三年の役の帰り、世田谷八幡に寄ったとのことだ。

尚、この道は、北へ行くと笹塚で、太子堂八幡ルートとぶつかる。

5. 駒繋神社、芦毛塚(東ルート)

芦毛塚

祐天寺の駅の西、世田谷の下馬に、写真の芦毛塚がある。頼朝が奥州征伐で平泉に向かう際、このすぐ北を流れる蛇崩川に、乗っていた芦毛の馬が足を取られ、転倒し、死んでしまったことから塚を建てたという伝承が残る。その時、頼朝は、家臣たちに、馬を下りて渡河するよう指示したことから下馬、川を渡り再び馬に乗ったことから上馬という地名が起きたという伝承がある。(が、上馬・下馬は、上馬引沢と下馬引沢から来ている。上下は京に近い方が上、遠い方が下で、馬引沢は、既述の伝承から来ている。)

蛇崩川沿いに西へ行くと駒繋神社がある。

駒繋神社

駒繋神社の由緒は、

『源義家が父頼義公とともに朝廷の命をうけ奥州に向かう途中、この地を通過するさいに、子の神に祈願参拝休憩したと伝えられる。また、文治五年(1189)七月源頼朝が、源頼義・義家という先祖に倣い、藤原泰衝征伐のため立ち寄り祈願したさい、愛馬を繋いだ松を駒繋とよび、のちに駒繋神社と称するようになったとされる。』

3代目駒繋ぎの松

と、太子堂ルート、西ルート同様の源頼義・義家親子の前九年の役に向かう際の伝承と、頼朝奥州征伐の伝承が残っている。

又、このルートは、冒頭の写真のキャプションで記載したように、義経が、兄頼朝挙兵の際、平泉から鎌倉へ馳せ参じた道という伝承も残っている。弟義経が、未だ見ぬ兄、憧れの兄に会いに行った道なのだ。

頼朝が奥州征伐に向かう時は、義経は、藤原泰衡の裏切りにより既に自害していた。泰衡は、義経の首を酒に浸した瓶を頼朝に送り、なんとか征伐をやめてもらうようにしたという。頼朝の許可無く義経を討ったことに激怒し頼朝自ら奥州に向かった訳だが、それだけだったのだろうか。頼朝は弟義経を生かしたかったのではなかろうか。この道を行く頼朝の心を思うと・・・

6. 世田谷元宿ルート

世田谷元宿というのは、吉良氏が世田谷の地を拝領し、世田谷城築城後に開発した鎌倉道の宿場だ。場所は、今の世田谷区役所辺りという。時代は下り、後北条氏の時代、宿場は拡大され、新宿ができる。新宿では楽市が開かれ大いに賑わった。新宿は拡大し、上宿と下宿に分かれた。上宿は今の上町に名残がある。尚、上宿の楽市が今に残るのがボロ市だ。

世田谷元宿のあった辺り、現在の世田谷三丁目交差点付近

この世田谷元宿を通るのが、世田谷元宿ルートだ。ここまでご紹介した1~6のルートは、全て、鎌倉時代かその直前の平安末期(源頼義・義家の東国拠点は鎌倉)で、鎌倉の必然性がある。が、このルートは、吉良氏が開発した世田谷元宿を通っていることから室町期のルートとのことだ。

何故、室町期に鎌倉か。

1356~1365年の間、吉良治家は、鎌倉公方足利基氏から上野国碓氷郡飽間郷の地を与えられ、その後、武蔵国世田谷も拝領、やがて世田谷城を築き、本拠を世田谷に移した。鎌倉公方は鎌倉将軍と言われ、東国において最高の地位にあった。その次が官領で、その次が御一家。吉良氏は、ご一家に列し、足利一門として、無御盃衆とされ、格別の処遇を受けた。

鎌倉と上野国碓氷郡飽間郷のルート上に、世田谷はある。

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源頼義・義家親子の前九年の役の伝承は、幾つかのルートで重なっている。どちらが本当か、はたまたどちらも単なる伝承の域を出ないのか、それは分からない。

その後の頼朝・義経兄弟、新田義興・義宗兄弟の伝承も、その域を出ないかもしれない。

が、この辺り、世田谷の地を、1000年近く前に源頼義・義家親子、頼朝・義経兄弟、新田義興・義宗兄弟が通って、我が先輩方と何らかの交流があったのだと思う。

そう思うと、何だか楽しいではないか。実際、私は、こうして調べたり、実走したりして、歴史に思いを馳せることができて、楽しかった。


より大きな地図で 世田谷区の鎌倉道 中道 を表示

鎌倉道 中道の地図

太子堂八幡ルート、世田谷八幡ルート、世田谷元宿ルートは、北では笹塚で繋がっていて、南では大山道で繋がっている。

西ルートと千歳船橋ルートは、津久井往還で繋がっている。

西ルート、千歳船橋ルート、太子堂八幡ルート、世田谷八幡ルート、世田谷元宿ルートは、中野通りの十貫坂上で繋がっている。

地図を見ると、現実には、多摩川の状況で渡し位置を変え、渡し位置によってその日の道筋を変えていたのかもしれない。

又、大山道、津久井往還の成立時期は、平安末期頃なのだと推定できる。大山道は、後北条氏居城小田原城と世田谷城、江戸城を結ぶルートであることから、戦国時代に成立したと思っていた(http://yogismessage.blogspot.jp/2012/12/blog-post_23.html)が、それより早いかもしれない。

一方、東ルートだけは、赤羽で全てのルートと接続するものの、南側はどことも接続していない。頼朝伝承があるのも東ルートだけで、そのことと何か関係があるかもしれない。

以上